うしろの百太郎
私はこの人の話を、詐欺か新興宗教の勧誘だろうと思い、真意がどこにあるのかを気にしながら聞いていたのですが、この頃にはそういった方向に話が進む様子がなく、内容こそ奇想天外なものの、話しぶりは理路整然としていて、妙に不自然さを感じさせないのでした。要するに頭がおかしいとは思えず、全て本当の事だと思い始めていたのでした。
「あなたはうしろの百太郎という漫画を知っていますか?」
随分と懐かしいような漫画の話を始めたなと思いましたが、当然守護霊の話だと思い、
「読んでました。その漫画で守護霊だとか、地縛霊だとか、浮遊霊なんていうのを知ったのだと思います。あなたの守護霊があなたを守らなかったという事ですか?」
「いや。それもそうだけど、何しろ俺に憑いた亡霊はとんでもない数なんで、守護霊もどうしようもなかったんじゃないかと思うんだ。まあ、守護霊と言うのも本当にいるのかどうかも分からないしね。そこの所じゃなくて、守護霊というのが本当にいるとして、何時も後ろにいて自分を見ているというのを、何ていうか、うっとうしいと思わなかったですか?俺は聖人君子というわけじゃないから、見られたくない時もあるし、単純に便所でかがんでいる時なんかに後ろで見ていたら嫌だなと思っていたりしたけどね。」
成程、それはそうだと思いました。
「私にはやたらと怖い漫画だったとしか思いだせませんけど、言われてみればその通りですね。世の中のほとんどの人は皆そうでしょうね。」
「そうだろ、守護霊でもそうだと思うんだよ、ましてや何にも関係のないような見ず知らずの亡霊だと、余計にそうじゃないか。亡霊と話すようになって、最もむかついたのはそこの所なんだよ。奴ら何時も俺を観察しているらしくて、説教したりするようになったんだ。休みだからといって、昼から飲んだりするなと言ったり、如何わしい店に遊びにいくなとか言うんだ。俺は独身だし、誰にも遠慮はいらないんだから、ほっておいてくれと言ったんだけど、いろんな亡霊がいろんな事を言うんだ。俺は亡霊に対して恐れより怒りが強くなったね。と言うより、ほとんど恐れはなくなって、怒りだけになったと言ってもいいと思うんだよ。毎晩のように言い争っていたんだ。」
不思議な事に私も亡霊に対して恐れよりも怒りを感じるのでした。何故か話を聞いている内にこの人に同調していたのです。
ワイシャツの坊主
「確かに聞いていると亡霊はむかつきますね。」
「そうだろ。嬉しいね。分かってくれるのは本当に嬉しいよ。親父でさえ分かってくれなかったんで、誰も分かってくれないと思っていたから、誰にも話さなかったんだ。」
その人は本当に嬉しそうでした。ずっと誰にも話せなくて一人で悩んでいたのかも知れません。
「俺は普通の人間で、何時も品行方正でいるわけもないので、四六時中見られていたのでは息も詰まる思いなわけだよ。その上亡霊の奴らは、本当に細かい所をついてくるんだ。仕事中は煙草を吸うなとか、社員に対する言葉遣いが悪いとかまで言うんだよ。内の社員と軽い口喧嘩になった時も、悪いのは俺だったのだけど、それでもなかなか謝れないでいたんだ。それをちゃんと謝れと言って、亡霊のくせに俺の何が悪いのかずっと説教しやかるんだ。だから俺が悪かったと言っているだろと言っても、謝る相手が違うだろ、なんて言うんだよ。むかつくだろ。分かり切った事なんかをねちねち言いやがるんだ。」
「それは本当に嫌ですね。良く分かりますよ。」
そう言うと、ますます嬉しそうに笑顔になりました。
「そうだろ。そうだろ。そんなある日に現れた亡霊は、白いワイシャツで学生ズボンを履いた、見るからに子供の顔をした奴だったんだけど、その日は俺には何も言われる様な事のない日だったんだ。そしたら、その坊主の亡霊の奴は、現れた後しばらく黙って立っていただけだったんだ。俺はどうだ何も言う事がないだろうと思いニヤニヤしていたんだけど、あの野郎言う事がなくて困ったのか、こう言ったんだよ。オジサンは絶対にもてないね。性格も悪いし行いも悪いしね。とね。俺はカーとなったね。腹が立ってその坊主の亡霊の頭を叩いて、ガキが大人に向かって生意気言うなと言ったんだ。そしたらすっと消えてしまったんだ。何時も朝方まで現れている亡霊がやけに早く消えてくれて良かったと思ったけど、何故消えたのかは、その時は分からなかったんだよ。」
「前にも土下座して謝ったら消えた初老の亡霊がいたと言っていましたよね。亡霊のほうで、何か納得するような事があると、消えるということですかね。」
「うん。俺もそんなふうに思っていたんだけど。実はもっと単純な事だったんだ。それに気が付いたのは、直ぐだったんだけどね。」
その単純な事というのを聞いて私は愕然とするくらい全てを納得したのでした。
馬鹿な亡霊
「亡霊に見られていると思うので、少しは真面目になっていたとは思うのだけれど、生きている人間は限界があるんだな。仕事が上手くいかないと、俺は社員にあたったりするし、飲むし煙草も量が増えたりするしね。亡霊は当然その辺を説教するんだよ。前に坊主の頭を叩いた時に、全く手応えがなくて、亡霊を叩いても罪悪感がなかったんで、その次の日に現れた亡霊には、軽く蹴りを入れてやったんだ。そしたら消えたんだよ。それで、もしかしてと思って次の日は肩を押してみたんだ、やっぱり消えたんだ。」
「そうすると触ると消えるという事ですか?」
「そうなんだ。あの初老の亡霊は自分から消えたんだと思うけど、その他は触られたので消えたんだよ。何故触ると消えるのかは分からないけど、とにかく、触ると消えるんだ。それが分かったので、それからはウザい説教をする亡霊には空手の正拳突きを喰らわせてやったり、回し蹴りなんかを喰らわせるんだよ。スカッとするんだ。ストレスの解消になるね。」
それを聞いて私は、あっ、と思いました。
「そういう事ですか?スナックバーでの出来事はそういう事なんですね?」
「うん、そうなんだよ。分かってくれたんだね。」
「そうですね、だからあなたはヤクザを亡霊だと思ったんですね。それでも確認の為にバーテンダーを見たら、バーテンダーは相手がヤクザなんで、関わりたくないので知らん顔をしてたのを、あなたは見えていないんだと解釈して、やっぱり亡霊なんだと確信してしまったという事なんですね。」
「そう。そう。全くその通りなんだよ。ただ、あの時は少し酔っていたから気が付かなかったけど、冷静に考えれば亡霊が自分から喧嘩を売るような事をするのはおかしいと思わないといけなかったな。亡霊は殴ることなど出来ないのだから、表に出ろなんて言う訳ないんだよな。だけど本当にいろいろな亡霊がいるから、そんな馬鹿な亡霊もいるのだとくらいにしか思ってなかったんだ。その時はどう殴って消してやろうかなんて考えていたんだよ。ところが、外に出たらいきなり殴ってきたから、仰天してしまったね。しまった、亡霊じゃないと思ったけど、そのパンチを受けた左手が痺れるくらいの威力だったので、また仰天してしまったんだ。」
「亡霊じゃないと分かったんだから、殴り合いは止めようとしなかったんですか?」
「したよ。俺は間違いましたと言ったんだ。勘違いなんですとも言ったと思うけどね。とにかく間違いなんです。止めましょうと言ったんだけど、ふざけんな!今更遅いとか言われたね。それでも何発かのパンチを避けたり防御したりして、こちらからは手を出さずに我慢したんだけど、腹に一発喰らったら、限界だったね。その後はもう記憶にないんだよ。」
「まさか亡霊の企みとか策略とかじゃないでしょうね。」
「まあそれはないと思うけどね。いくら亡霊でも俺の行動までは予測出来ないと思うよ。まあ、偶然だと思うね。」
私も偶然だろうと思うのですが、もしそうじゃないなら怖すぎます。
沼津グランドホテル
沼津市街の表示がある標識が見えてきました。お客さんは一通り話し終えたようで、車内は少しの間沈黙が続いていました。
「沼津に着きました。真っ直ぐ駅に向かいますけどいいですね。」
お客さんからは返事がありません。どうしたのかと思いルームミラーを覗き見ると、どうやら寝ている様子でした。確かに昨晩はあまり寝ていなかった様ですし、話疲れたのかもしれません。乗ってきた時に、初めに言われた事のなかに、洋服屋があったら寄ってくれと言われたのを思い出し、駅に行く前にそれを探すかどうかを聞こうとしたのですが、仕方がないので、車を止めて起こすことにしました。声を掛けても起きないので、手を伸ばして足を叩こうとしましたが、もしかしたら、触れた瞬間に消えてしまったりしないだろうな、などと考えたりしました。しかし、さすがにそんなことはありませんでした。フィクションなら、そんな終わり方も面白いなと、今思っていますが、この話は実話をそのまま書いているので、作るわけにはいきません。目を覚ましたその人は、少し寝ぼけたようすでした。
「やっぱり静岡まで行ってくれないか?」
そう言われて少し考えました。しかしこの人はこの後は直ぐに寝てしまうだろうと思いました。かなり疲れている様子なので、車を止めた時に目の前にあった看板を見ながらこう言いました。
「そこの看板にある沼津グランドホテルに行ってはどうですか。今日はそこに泊って、明日にでも新幹線で帰ってはどうでしょうか?」
「おお、そうだね。いい考えだね。そうしよう。そこに行ってくれ。」
即答でした。私も我ながらいいアイデアだと思ったりしました。ホテルの玄関に着けて料金の精算をしました。4万円を超える料金を支払ってもらい、私は改めて詐欺でもなく、宗教の勧誘でもないなら、この人のここまでの話は本当なのだろうかと考えてしまいました。仮に作り話だとした場合、それを私にする理由がわかりません。
車を降りたその人は、当然玄関からホテルに入っていくと思っていたのですが、何故か後ろに歩いて行きました。どうしたのかと思って、後ろを見ると、ちょうど地元のタクシーらしい車がお客を降ろしているところでした。空車になったそのタクシーにその人は乗り込んだのでした。私はゆっくりとそこから出ました。バックミラーでそのタクシーを見ていましたが、なかなか動こうとしませんでした。やはり九州まで行ってくれと言って、運転手は困惑しているのだろうかと、想像しました。