長崎へ
もう4~5年も前の話になりますが、この人の話は、簡単には信じられないかもしれません。私も初めは信じられず、頭がおかしいと思っていました。しかし、ずっとその人の話を聞いている うちに、全てを信じたのでした。作り話なら数々の矛盾や違和感があるはずで、それを感じさせないのは、実話でないなら本当に天才的な作家だとしか言いようがありません。
その人は二子玉川駅のタクシー乗り場に、早朝の5時過ぎ位に乗ってきました。乗ってきて初めの言葉はここはどこなんだろうでした。私は何を言っているのか理解出来ませんでした。
「何を言っているのですか。」
「ここは、神奈川の何というところなのかと聞いているんだよ。」
「東京の二子玉川という所ですけど。」
「東京か?」
つぶやくように言い、何かを考えているように、黙り込んでしまいました。
私はその異様な様子に、取り合えずタクシー乗り場から外れて、その人の話を聞くことにしました。タクシー乗り場から3mほど前に止まって、そのお客さんの言葉を待っていましたが、黙ったまま何も言おうとしません。困った私はどちらへ行ったらいいですか?と聞いてみました。
「タクシーというのは、どこまで行ってくれるかな?」
「別に決まりはありませんし、まだ朝も早いのでかなり遠くでも行けると思いますけど。」
「それじゃ、長崎まで行ってくれませんか?」
「まさか九州の長崎じゃないですよね。豊島区の南長崎なら問題ないですけど。」
「九州の長崎なんだけど。」
この人は私をからかっているのか、何かの冗談なのだろうと思いながら、
「さすがに九州は無理です。新幹線か飛行機で言った方が、早いし安いですよ。東京駅に行きましょうか?」
「見張られていると怖いから東京駅は駄目だな。」
私には言っている意味が分かりません。
「それでは羽田に行って飛行機で行ってはどうでしょうか?」
「東京駅ょりヤバい気がする。」
「申し訳ありませんが、私には何を言っているのか分からないのですけど、東京駅が駄目なら、横浜ではどうでしょうか?」
「横浜はヤバい。」
とにかく意味が分かりません。
「それじゃ、小田原ではどうでしょうか?」と言うしかありません。
「そうだな、それじゃ小田原に行くことにしようか。」
あまり行きたくないと思うのでした。
取り合えず小田原へ
「小田原へは用賀から東名高速で厚木に行って、厚木小田原道でいいですね?」
「高速は見張られているかもしれないから、使わないでくれ。」
「それじゃあ、国道246で行きますか?」
「そうしれくれ。」
いわゆる下っ走りというやつですが、一般道が時間がかかるのが嫌だというのではなく、どこかおかしなこの人とその分長い時間関わるのが嫌でした。
「洋服屋があったら、寄ってくれ。」
洋服屋に何の用事があるのだろうかと思いました。
「ユニクロなら街道沿いにあるかもしれませんね。」
「ユニクロはカメラがあるから、それで俺の足取りを追われるとヤバいな。よくある、田舎の洋品屋みたいのがいいな。」
それを聞いて私は警察に追われているのだと思い、警察署か交番があったら寄ろうと考えました。
8月の旧盆前の暑い時期なので、シャツ一枚の装いでしたが、長そでの柄シャツで、中年のサラリーマンゴルファーがゴルフ場に向かう時のラフな格好を想像してもらえれば、ほぼ間違いありません。
「まだ朝が早いので、洋服屋は開いてないでしょうね。」
「そうだな。しかたないな、早く着替えたいけど我慢しよう。袖に血が付いているのが気持ち悪いのと、この服が憶えられているとヤバいからな。」と言い、
「ほら、ちょっと見てくれこれなんだけど。」
手を助手席と運転席の間から出してきました。見ると服の袖口に模様とは違う、赤黒いシミが確かにありました。
「どうしたんですか、ケガをしているんですか?」
「いや、これは俺の血じゃないんだけど、俺の体には、あちこちにアザがあるんだ。けっこう痛むんだけどね。」
「それは要するに誰かと喧嘩かなんかして、傷害かなんかで警察に追われているということなんですか?」
かなりストレートな言いかたをして、私がヤバくなるかとも思ったのですが、隠さずに話すその態度から、それほど悪い人ではないと思ったのでした。
「多分、警察には追われていないと思う。実はヤクザの大幹部という人をボコボコにしてしまったんだ。形は喧嘩したようになっているけど、本当は喧嘩とは違うんだよ。」
やはりよく分かりません。
「そうすると、ヤクザに追われているという事ですか?」
「まあ、そういう事なんだよ。広域暴力団なんで、どこで見張られているか分からないので、タクシーで九州まで行きたいんだよ。このまま行ってくれないか?そうだ、あなたにしたらお金が心配だよね。大丈夫だから、ほら、ちゃんと持っているから。」
そう言って、財布の中を見せてくれました。中にはざっと見て、20万円位はあるようでした。私に対しても気を使う人だと感じ、その人に対して少しだけ気を許すようになり、詳しく話を聞く気になったのでした。
亡霊だと思った?
朝も早い時間なので道路はガラガラの状態で、運転は快適でしたが、後ろの乗客には少し気を使うので、車内は快適とは言えませんでした。
「お金があるのは分かりましたが、やはり九州まで行くのは無理です。小田原から新幹線で行ってください。不安なのは分かる気がします。申し訳ありませんが、勘弁してください。」
「そうだよな、言わば自業自得というやつだな。」
ルームミラーを見るとその人は、天井を見つめるようにして考え事をしているようでした。
私にはその人の話は理解できず、少し頭がおかしいと思っていたので、まともに話を聞こうとは思わず、出来るだけ刺激しないように接するしかないと考えていました。するとその人は、小さな声でつぶやいているのです。
「亡霊だと思ったんだよな。」
亡霊だと思った?私はそれを聞いて、やはりおかしいんだと確信するのでした。
「ねえ、運転手さんは亡霊を見た事はあるかい?」
来た。と私は思いました。どう返答したらいいのだろうか?亡霊と幽霊は違うのだろうか?などとどうでもいいことを考えたりするのでした。
「ええと、亡霊は見た事ありませんね。亡霊と言うのは本当にいるのですか?」
こんな返答でいいのだろうか?ヤクザと喧嘩したらしいような、このお客と喧嘩するのだけは避けなければなりません。
しかしその人からは亡霊に対する答えは無く、
「昨晩スナックバーで飲んでいてさ・・・」と急に昨晩の話を始めたのでした。
「俺は一人で飲んでいたんだけど、その店には俺の他にはその店のバーテンダーと少し離れたカウンター席に30前後位の女性しかいなかったんだ。俺は酒に酔ってきたんだろうな、その女性に一人ですか?と話掛けたんだよ。するとニコッて微笑んで俺を見たんだよ。だけど人を待っていますと言うので、それじゃあ、その人が来るまで俺と話しませんか?って言ったんだ。すると少し困ったように笑ったのだけど、俺はそれを手応えありと思って押してみようと思ったんだ。とにかく俺は酔っていたんだな。それで、もしその待っている人が来なかったりしたら、この後、俺と食事でもどうですかと言ったんだよ。その時俺の後ろから声がして、初めて会った人に、食事を一緒になどと誘うのはズーズーしかないかと言う男が現れたんだ。振り向くと見た事のない男がいて、俺を睨んでいるんだよ。バーテンダーを見たら全く無視しているので、見えないんだと思ったんだ。だからその男は亡霊だなと思ったんだよ。また俺に説教しやがってと思って、消えろと言ったら、その男は激高して、表に出ろなんて言うんだよ。俺は亡霊のくせにふざけやがってと思いながら一緒に表に出たんだ。」
私はその意味不明な話をどう聞いたらいいのか分からず、戸惑うだけなのでした。
空手は師範級
「その男は、表に出たらいきなり殴ってきたんだ。実は俺は空手を子供の頃からやっていて、腕には自信があるんだよ。中学や高校の時に県の大会では優勝もしているし、全国大会でも何時も上位の成績だったんだ。今では空手は師範級だし、その上、柔道も黒帯なんだ。そんなわけでその男をボコボコにしてしまったんだ。白けた俺は、もう帰ろうと思ってスナックバーに料金の精算に戻ったら、バーテンダーが一緒に行った人はどうしたんですか?って聞くので、表でボコボコにしてしまったと言ったら、バーテンダーは漫画みたいに目を丸くして、その人はこの辺を仕切っている暴力団の大幹部ですよ。直ぐに逃げた方がいいですよ。と言うんだけど、酔っていた俺は平気平気と言って、さっき話し掛けた女性を見たら、俺が怖いのか、逃げるように店の奥に行ってしまったんだ。それを見て、ますます白けてしまったので、帰る事にしたんだよ。」
そんな話を聞いても、私には当然信じられません。多分作り話なんだと思いながら、何のためにそんな話を作るのだろうか、あるいは本当にそんな妄想を現実と思っているのだろうか。もしかすると新手の宗教の勧誘だろうかなどと思っていました。
「空手や柔道の有段者だと、喧嘩なんかで人を傷つけたりすると、罪は重いと思いますけど。」
自分が強いんだというのを威張りたいだけなんじゃないかと思うのでした。もしかすると、空手の有段者だというのも嘘なんじゃないかと疑ったのでした。
「そうなんだよ。本当にその通りなんだ。空手を習い始めた頃からそれは繰り返し言われたし、俺も子供達にそう言っているしね。今までに空手を喧嘩に使った事はなかったんだけどな。最も俺に喧嘩を売る奴なんか、俺を知ってる奴はいるわけないしな。二十歳の頃、一度だけ俺に喧嘩を売ってきた奴がいたな。俺の事を知らない町のチンピラだよ。奴のパンチはまるでスローモーションみたいで、ポケットに手を入れたままで、全てのパンチを避けてやったんだ。だから素人相手なら、喧嘩にならないんだ。」
「それなのに今回はなんで喧嘩してしまったんですか?」
「だから相手が強すぎたんだよ。多分格闘技はやっていないんだと思うけど、さすがにヤクザの大幹部というだけあって、やたらと強かったんだ。最初のパンチを受けた時、その威力に驚いたね。これは手を抜けないと思ったんだ。だから本気でやってしまったんだよ。俺もアザだらけにされたからね。防御やステップを見ると格闘技はやってなさそうだったけど、もしやれば俺より強くなるな、多分。」
なるほど一応筋は通っているなと思いました。それでも、どこまで信用していい話なのか、疑いは残るのでした。
ヤクザに囲まれた
「あなたは喧嘩という訳じゃないと言っていましたけど、私には喧嘩に聞こえましたね。」
「そうだな。やっぱり喧嘩だな。正直言って、さっき運転手さんが言ったように、空手の有段者としては喧嘩をするのはご法度なんで、喧嘩じゃないと思いたかったという事なんだよ。今まで試合以外で空手を使った事が無かったので、気持ちが混乱して認めたくないんだ。」
どうもかなり反省しているらしいと思いました。格闘家としては強くても人は優しいのかもしれません。
「それでホテルに帰ったのだけど、あまりにも疲れていたので、着替えもしないでベットに横になったんだ。殴られた所も傷んだし、風呂にも入る気がしなかったんだ。少しうつらうつらしてきた頃、何やら表が騒がしかったんで、カーテンの隙間から覗いて見たら、黒塗りの車から黒服の男達が集まって来ていたんだよ。まだ夜明け前の暗闇の中で、兄貴ごくろうさんです、なんて言っている声が聞こえて来たんだ。他にもこっちに向かって来る車のライトなんかが見えているんだ。これはヤバい、ヤクザに囲まれたと思った。東京湾に簀巻きにされて沈められると思ったね。慌ててホテルのフロントに行って、事情を話したら裏口から逃がしてくれたんだよ。それで暗闇の中を小走りで逃げたのだけど、ちょうど運よく目の前のバス停にバスが止まったので、そのバスに乗って着いたのがあなたのタクシーがいた駅だったという訳なんだ。」
話としては面白過ぎて信用出来ないと思うのでした。どこかに整合性のない箇所がないか考えてしまうのでした。
「まるで映画か漫画の話のように聞こえますね。ヤクザは何故あなたが泊っているホテルがわかったのでしょうか?」
「それは、ちょっと恥ずかしいのだけど、とにかく酔っていたので、文句があるならこのホテルに泊まっているから、何時でも来いと言ってホテルの名前を教えてしまったんだよ。」
「ヤクザの大幹部なら、当然子分がいるわけだから、そんなことをよく言いましたね。」
「だから、その時はまだヤクザの大幹部どころか、ヤクザであることすら知らなかったんだ。」
確かに喧嘩の後にバーテンダーに教えられたと言っていたので、納得せざる負えません。
朝は空いていた道路がいつの間にか混んできました。下りなのに何故こんなに早くから混むのだろうと考えていると、旧盆前だからだと思い当り、するとこの後渋滞になるかもしれないと気付くのでした。この訳の分からない事を言うお客さんと渋滞の中で、ますます長時間一緒にいるのかと思うとウンザリするのでした。
解体屋
太陽が昇るにつれて車内は暑くなり、道路は次第に渋滞してくるのでした。雲一つない快晴の空だけが清々しく、暑さや渋滞だけでなく、何故か無口になったお客さんにもストレスを感じるのでした。30分ほどの沈黙が続き私の方から話掛けようかと思うのですが、何をどう話したらいいのか分からないのでした。お客さんは顎の下に握った手を当てて、斜め下を見ています。ロダンの考える人のポーズです。実際に考え事をしていたらしく、顔を上げると話始めたのでした。
「実はこの話は信じられないと思うので、話そうか考えていたんだ。」
既に今までの話も充分信じられないのに、それ以上に信じられない話なんてあるのかと思うのでした。
「俺の仕事は建造物等を取り壊して更地にするという仕事なんだ。いわゆる解体屋と言われるやつだな。会社の社長は俺の親父で、俺は専務なんだよ。自分で言うのもなんだけど、解体屋としてはかなり優秀なんだよ。うちの会社に解体出来ない建造物はないね。だから日本中から依頼が来るんだ。それで昨日仕事が終わって、社員は先に帰ったんだけど、俺だけ依頼主と話さなきゃならない事があって残ったんだよ。それで夜、暇だったんで、スナックバーに飲みに行ったという訳なんだ。本当は今日依頼主と会わないといけないんだけど、こんな事になって、仕方ないから後で電話でもするしかないな。」
この人の話は信じられない事ばかりなのですけど、この後の話は本当に信じられないものでした。
「これまでに解体した建物は数も種類も多岐に渡ると言えると思うけど、例えば廃病院とか、焼き場とか、いわゆる幽霊屋敷とかもあった。しかし、それで何かがあったとかは一切なかったんだ。ところがその問題の建物は、船や飛行機の部品を造る工場だったらしいのだけど、かなり大きくて丈夫そうな石造りの建造物で、一見してうちの社員だけでは人が足りないと思い、20人ほどのアルバイトを募集したんだ。それで仕事内容を説明するのに、この建物を取り壊すと話したら、みんな、それなら辞めると言うんだ。それでその中の一人に理由を聞いたら、今までその建物は何回も壊そうとしたんだけど、それをした人は事故で死んだり、病気になって死んだり、自殺したりしたと言うんだ。それを聞いてさすがにヤバいかもと思って、社長に電話したら、そんな建物を今までにも壊して来ただろ、下らないことを言うなと怒られたんだよ。しかたないので、少し離れた土地で人を集めて取り壊しを始めたのだけど、始めた当初から異様な事が起きたんだ。」
200人の亡霊に憑りつかれた人2に続く