最初の難儀人

東京医大前

 今日までたくさんの難儀人を乗せましたが、最初の難儀人は、やはり忘れることは出来ません。その方は自称71歳のご婦人で、別に暴れるわけでもなく、むちゃなことを言って困らせられるわけでもないのですが、後に分かったのは、本当にたくさんの人に迷惑をかけている人だということでした。子悪党と言う言葉はこういう人の事を言うのかもしれないと思うのでした。

 夜の11時を過ぎた頃の西新宿の青梅街道で、その人は手を挙げたのでした。東京医大前のバス停のあたりです。ちょと見はパジャマのような服装で、真っ赤な口紅が印象的でした。一言で言うと、派手なお婆さんという感じです。この方からは、最終的に料金を頂いていないし、この方に敬語は必要ないと思うので、使いません。行き先は相模原と言いました。そして、こんなおかしな事を言うのでした。「女は奇麗だと嫉妬されてしまうので、困るのよね。」と、当然何を言っているのか分からず、「何かあったのですか。」と聞き返しました。ルームミラーで見たところでは、お世辞にも嫉妬されるほど奇麗だとは思えません。かなり厚化粧ですが、後に本人が言っているように、71歳位に見えたのでした。

 「東京医大で、具合が悪いので入院したいと言ったのに、相手が女医だったから入院させてもらえなかったのよ。」と言うのですが、そんなおかしな話はないだろうと思いました。いくらなんでも、入院が必要な人に、嫉妬で入院させないということなど、ないだろうと思うのでした。納得できない話に、まともに返事も出来ずにいたら、「男の先生だったら、私の言う事は何でも聞いてくれるはずなんだけど、今日はついてないという事ね。」とも言うのでした。だいたいにして、手を挙げている時の立ち姿も、乗り込む時も、どこにも病人らしい仕草は無かったのでした。仕方なく、「そうですか。」とだけ言ったのですが、少し頭がおかしいのじゃないかと疑ったのでした。「今でも、軽くめまいがあるのに、まともに見ようともしないし、まともに検査もしないで、どこも悪い所は無いから帰ってくださいと言うのよ。結局私に嫉妬しているとしか思えないのよね。」と言うのです。その時は見もしないというような事は、無いだろうと思ったのですが、後にこの人のとんでもない行動を知り、なぞは解けたのでした。東京医大の女医さんは、この人の正体を知っていたという事なのだろうと思います。もちろんこの時点で私には、何も知りようもないので、このおかしな人と相模原まで、行くのかとため息をつく思いでいました。

相模原へ

 相模原に向かう車中では、かなり饒舌でした。たぶん疑われないように、気を使っていたのでしょう。先日テレビで見た、タクシー強盗も、犯行前は明るく饒舌に振舞っていました。立川からタクシーで帰った話や、小田原から帰った話をするのですが、なぜそんな話をするのか、分からずにいました。後で考えると、遠い距離をタクシーで帰るのも日常なんだと印象付けて、信用させようとしたのか、後ろめたい気持ちを隠そうとしたのだろうと思います。しかし、立川や小田原が、実はかなり意味のある事が、後に分かるのですが、その時は当然何も考えずに聞き流していました。

 「ムーンがビュウティフルね。」などと言うので、「英語が得意なのですか。」と聞くと、「福生の米軍基地で働いたことがあるのよ。」と言うのですが、「相模原のロード16に行ってね。」と言った時の、16はシックスティーンではなくジュウロクと言い、普通はロードではなくルートなんだけど、と思ったりしたのでした。

 相模原に着くと、ファミレスのデニーズの駐車場に止めてくれと言いました。その当時は24時間営業でしたので、食事をするつもりなんだと思い、何の疑問も持たずに駐車場に入り止めました。するとこんなトンデモナイことを言うのでした。「今は持ち合わせがないので、後で料金は送るから、コーヒー代の五百円を貸してもらえないかしら。」と、料金を踏み倒した上に、コーヒー代を貸してくれとは、あまりのずーずーしい話にあきれてしまい「料金の後払いは聞けませんし、ましてやコーヒー代を貸す気など、一切ありません。」と言うと、「私はコーヒー中毒で、コーヒーを飲まないと、うつになったり、手が震えたりするんですよ。」と言うのです。「いやいや、問題はそこではなくて、タクシー代の話です。あなたのコーヒー中毒は私にはどうでもいいことですから。払う気がないのなら、警察署か交番に行って話し合うことになりますよ。」と言うと、とたんに黙ってしまいました。しかたないので、相模原警察署に向かうことにしました。

 デニーズの駐車場から16号線に出ると、急に「あっ、止めて。」と叫ぶように言いました。「どうしたんですか。」と聞くと、「あそこにいる猫を捕まえないと。あれは隣の家から逃げた猫よ。」と言うのです。指の示す方を見ると、藪に入る白い猫が確かにいたのですが、直ぐに姿を消してしまいました。「残念ですが、あれでは捕まえるのは無理です。」と言うと、「猫はあきらめるけど、そこに自販機があるでしょ。さっきも言ったけど、私はコーヒー中毒で、もう禁断症状がでそうなのよ。お願いだから、缶コーヒーを奢ってくださらない。」などと言うのです。猫のことも信じてはいないので、これも逃げる算段なのだと思い、どうしようかと思ったのですが、とりあえず黙らせるほうがよさそうだと思い、ドアをロックして車を降りました。自販機で缶コーヒーを買っていると、車のドアを開けようとするガチャガチャという音が、聞こえてきました。どうやら、ロックの解除の仕方が分からない様で、私が車に近づいてもガチャガチャやっていました。失笑してしまったのは、言うまでもありません。

相模原駅前交番

 「相模原警察署ではなくて、相模原駅の交番にしてくれないかね。」と言われたのですが、理由は聞いても言いません。こういったトラブルも初めてだったので、どうすべきかも分からず、とりあえず交番でもいいかと思い、相模原駅に向かうことにしました。このブログの他の記事を読んでくれている人は、タクシーの料金トラブルは民事なので、警察は介入出来ないと言われると思っているかもしれませんが、この交番ではそれはありませんでした。東京と神奈川県警の差なのか、初めからお金を持ってないのを、お婆さんが認めていたからなのか、ほぼ私の想像どうりの対応をしていただけました。交番にしてくれと言った理由は、後々分かるのですが、全くあきれたものでした。

 交番でのお婆さんの態度はふてぶてしく、反省しているようではありませんでした。このお婆さんを見ている限りでは、料金は交番に来る前からあきらめていたので、結局は届けを受けてもらうだけでいいのでした。なぜなら、警察に届けなければ料金は売上として、会社に納めなければならないからです。西新宿から相模原まで当時で1万3千円ほどです。ただ働きの上、料金を払わされたのではたまりません。

 警察官はお婆さんに、何故料金を払わないのか、お金を持っているのか、名前は、年齢は、どこに住んでいるのか等、一通りの事を聞いた後、交番の外で私にどうしますか、と聞いてきました。私はどうせお金は取れそうもないので、借用書や、誓約書などを書いてもらうしかないと思うと伝えました。出来れば警察のどなたかに、立会人として、署名してほしいと言うと、快く承諾していただけました。会社にも電話で、成り行きと結末を報告して、承認してもらいました。この時点で時間は、午前1時30分でした。すでに西新宿から換算して、3時間半ほども無駄な時間を費やしたことになります。

 交番の中に戻る時、警察官は「それでは、少し懲らしめに脅かしてあげましょう。」と私に言いました。何を言うのかと思っていると、「運転手さんと話して、お金を払う気もないし、あまり反省もしていないようなので、逮捕することにしました。」と言ったのです。するとお婆さんはかなり慌てたようで、「待ってくれ、そんなことをされたら、生活保護をもらえなくなってしまうじゃろ。好きなパチンコも出来んじゃないか。」と言うのでした。警察官は「生活保護で貰った金を、パチンコで使ってしまうのか。」とお婆さんに聞きましたら、「この前に貰った金は、3日でなくなったわい、少なすぎるんじゃ。」と言うのでした。そんなことを、正直に言うお婆さんを面白く思いながらも、これでは誓約書や、借用書は紙くず同然だと思うのでした。

何なんだこの婆さん

   逮捕という言葉に焦ったお婆さんは、「わしの代わりに、悪い爺さんを教えてあげるから、その爺さんを逮捕したらどうじゃ。その爺さんは、電線を盗んで、中の銅線を売ったりするんじゃよ。」などと言うのでした。警察官も私を見て、苦笑いするのでした。「まあ、分かった、分かった。反省しているのなら、逮捕は勘弁してやるけど、どうなんだ。」と警察官がお婆さんに言うと、「おお、そうなのか、もちろんじゃ、おおいに反省しているとも。」と言ってニコニコとするのです。どう見ても、反省している様には見えません。

 「それじゃ、この紙に誓約書を書いてください。まず誓約書と書いて、この度はタクシー代を持たずにタクシーに乗り、多大な迷惑をかけました。二度とこの様な事はしないことを誓います。タクシー代金は後日必ず返済します。と書いて、日付と署名をしてください。」と警察官が言うと、お婆さんはなんと、そのままスラスラと書いたのです。私は何なんだこの婆さんはと思いながら、書かれた紙を見たのですが、誤字もなさそうでした。警察官もへーと言う顔で見ていましたが、「次は、借用書を書いてください。その下に金額を書いて、その下に返済期日を書いてください。」と言うと、それもスラスラと書いて、「返済は月賦でいいかね。」などと言い、いかにもちゃんと返すようなポーズをとるのでした。どうせこの人は、返したりしないだろうと思いながら、「いいですよ。」と言うと、「3千円づつで、5回払いということにしてくれ。3千円を4回で後は残金でいいな。」と言いながら、そこに割賦と漢字で書いたのでした。16号線をロードジュウロクと言っていた人と同じ人とは思えませんでした。

 とにかく、これで終わって帰れると思っていたのですが、その時にパトカーが交番の前に止まって、3人の警察官が降りて来ました。その中の一人が、お婆さんを見て、「あっ、この人は。」と言うと、お婆さんは顔を背けるのでした。その警察官は「何かしたのか。この婆さん。」と言って、元からいた警察官に聞きました。「タクシーのタダ乗りの疑いですね。」と言うと、「なるほど、やっぱりこの婆さんだな。」と言って、一人で納得しているのでした。「俺はこの人をよく知っているけど、かなりたちが悪いぞ。」と言いながら、お婆さんの前に立ち、顔を覗き込むようにすると、ますます大きく顔を背けるのでした。お婆さんもその警察官に覚えがあるようでした。私は帰れると思っていたのが、新しい展開に、これはまだ帰れそうもないと感じていましたが、帰る事よりこの後、どうなるのかに、より大きな興味をもっていました。

婆さんの正体

 お婆さんは完全に不貞腐れた顔で、そっぽを向いていました。そのお婆さんに怒っているらしい警察官は、元々この交番にいた警察官に、「この婆さんは、寒い冬の夜なんかに、本署に来て、ソファーに寝かせてくれと言って、泊まったりするんだけど、朝に何人かに金を借りたりしてるんだ。」と言った後、お婆さんに、「婆さん、部長に五百円借りてるだろ。返してくれ。」と言いました。するとお婆さんは、「知らん、知らん、人違いじゃ。」と言うのです。なるほど、それで相模原署を嫌がったんだと分かりました。そして、「今もタクシーのタダ乗りの疑いだと言っていたけど、立川と小田原のタクシー運転手からも、お金を取ってくるから、待っててくれと言って、戻らないと言う被害届があるんだ。その人相容姿も、この婆さんじゃないかと思うんだ。」と言ったのでした。

 確かに、ここへ向かう途中で、このお婆さんは立川と小田原からタクシーで帰った話をしていたのです。「なんで私だけ逃げなかったんですか。」とお婆さんに聞きました。するとお婆さんは、「あんたは人が好さそうだったから、コーヒー代を貸してくれるのじゃないかと思ったんじゃよ。とんだ見込み違いじゃったけどな。」と言ったのでした。それを聞いて、私は我慢が出来ずに大笑いしてしまいました。笑いながら、「見込みが違っていたのは、申し訳なかったですけど、今あなたは、立川と小田原からのタクシーの乗り逃げを自供しましたよ。」と言うと、「あっ」と小さく言った後、「違う、違う、わしは関係ない、お前さんは余計な事を言うな。」と私を叱るのですが、私は笑いをこらえられず、くっくっくと笑い続けるのでした。私たちの周りには、6人もの警察官が取り囲んでいたのですが、誰も笑ってはいませんでした。「やっぱり間違いないな。」などと言っていました。

 「他にもこの婆さんは、万引きで書類送検されてるし、北里記念病院から同室の患者から金を借りた上、夜逃げした患者がいるという届があるのだけど、この婆さんじゃないかと思うんだ。」と警察官が言うので、「あーだから、東京医大では入院を拒否されたんですね。病院間で御触れが回っているという事じゃないんですか。」と私が言うと、「だから、お前さんは黙っておれと言っとるじゃろ。」とお婆さんは私を叱るのですが、警察官は、「そんなことを言っていたのですか。」と私に聞くので、「門前払いされたと、怒っていました。」と答えました。お婆さんを見ると、怒っているというよりは、今にも泣きそうな様子でした。

婆さんの処分

    警察官は、「今までは、婆さんだから許されたりしていたんだけど、この人は懲りないみたいだから、一度は逮捕して収監した方が、よさそうだな。」と言いました。お婆さんはうなだれていました。一人の警察官が、「これから容疑をかためて、逮捕状を請求するとなると、結構時間がかかると思いますけど。」と言うと、やはり一番このお婆さんに怒りを感じているらしい警察官が、「いや、今この件で、現行犯逮捕がいいんじゃないか。」と言いました。この件というのは、当然私のタクシーの乗り逃げのことです。お婆さんのうなだれた姿に、やはりすこしだけ同情するのですが、結局は今までみんながそうだったので、このお婆さんが甘えてしまったのだと、思い直して、警察に協力する気になっていました。

「そういう事だから運転手さん、被害届を出してもらえますか。」と言われ、「分かりました。」と言ったのですが、制服の内ポケットに入れた、誓約書と借用書を思い出し、「さっき、誓約書と借用書を書いてもらったのですけど、被害届を出せますか。」と聞きました。すると、「ああ、確かに駄目だな。」と言われ、「どうしようか。」と言い、警察官はひそひそと相談を始めました。
結局は今すぐの逮捕は無理だという結論になり、借用書に書かれた期日に返済が無かった場合には、逮捕するという事になりました。お婆さんは、必ず返すと言っていましたが、私は多分無い事だと感じていました。警察官の方々も私と同じだと思います。

相模原の交番を出たのは、もう朝でした。7時半頃です。西新宿から数えると8時間半もの時間を無駄に費やしたことになります。16号線は朝の通勤渋滞が始まっていました。朝日が眩しく、眠いので地獄です。その上、空腹だったので、コンビニでパンとコーヒーを買い、パンをかじりながら、なんでこんな目にあわなきゃいけないんだと、嘆いたのでした。

返済の期日が過ぎても、やはり返済はされませんでした。すると驚いたことに、相模原署から電話があり、私が会社にいる時間に伺うので、被害届に署名をして欲しいと言ってきたのです。向こうから、わざわざ来るというのに断るわけもなく、あまりの熱心さに感心したのでした。

これで、あのお婆さんはいよいよ逮捕かと思い、来た警察官に聞きましたら、会議の結果、高齢という事もあり、本人も反省しているということで、今すぐの逮捕は見送る事になったそうです。やはりお婆さんと言うことで、甘い処分になったのだと思いましたが、次になにかしらしたら、そく逮捕という事になるそうです。結局どうなったのかを、知る事は出来ませんが、あのお婆さんじゃ、逮捕は時間の問題だと思いました。