武蔵野市役所の桜
その方をお乗せしたのは6~7年程前になります。お母さんはごく普通の優しそうな方でした。お子さんは車いすに乗っていました。ちらりと見ただけですが、全く無表情で視線もどこを見ているのか分からない様なお子さんでした。かなり特殊な形状の車いすで、車いすというよりかはベビーカーに近く、座る部分はそっくりそのまま外れてタクシーの後部座席に置かれました。シートベルトを掛けられる様に出来ていました。手伝おうとしましたが、慣れているので大丈夫だと言われるので、台座の方をトランクに入れようとしましたが、たたみ方が分かりません。あちこちを触ってみましたが分からずにいましたら、お子さんの支度を終えたお母さんが微笑みながら近づいて来て、任せてくださいと言います。あっという間にたたむと、持ち上げてトランクに入れてしまいました。結局何も手伝えませんでした。
行き先を聞くと、〇〇まで帰りますけどその前にお花見をしたいと言われました。子供にお花見をさせてあげたいと言うのです。もちろん車の中から見るという事です。それでは武蔵野市役所の前辺りに行きますかと聞きますと、そうですねと言われましたので、先ずはむらさき橋に向かいました。むらさき橋の交差点にも少しですが桜の木があります。桜の木の下を走りますと、〇〇ちゃん桜の花が見えますね、奇麗ね、とお母さんがお子さんに話しかけます。お子さんの声は全く聞こえません。
車は五日市街道を左折して、三鷹通りを右折します。そこから桜のトンネルに入ります。その日は雲一つ無い晴天でした。そのせいなのでしょうか、桜の花を通り抜けた日の光は桜色に染まり、車は桜の海の中を漂っている様でした。今でもあれほど奇麗な桜の景色は見た事がありません。お母さんは〇〇ちゃん奇麗ねと繰り返しお子さんに語り掛けます。しかしお子さんの声はやはり聞こえませんでした。
お母さんは私に、〇〇ちゃんは8歳になるのですけど初めてのお花見なんですと言われました。こんなに喜ぶのなら、もっと早くからお花見をすれば良かったですわと言われました。私は3、4歳位に思っていたので、少し驚きました。しかしそれ以上にあの無表情のお子さんの喜んだ顔というのが気になりルームミラーを見るのですが、お子さんは低い位置にいて見えません。少し失礼かとも思いましたが、信号で止まった時に振り返って見ると、お子さんはやはり無表情にしか見えませんでした。その時に目と目が合って、少し怖いと感じてしまいました。
三鷹警察前の桜
市役所の前を通り市民プール前の交差点を左に曲がりました。左左と曲がり元の三鷹通りに戻りました。その間も桜の木の下を走ります。しかし何故か、ついさっき見たあの景色ほどの感動はありません。お母さんは相変わらず〇〇ちゃん桜が見えますか、奇麗ですねとお子さんに語り掛けます。三鷹通りに戻り感動するほど奇麗だった場所を再び通ったのですが、何故かそれほどではなくなっています。あの瞬間だけの特別な景色だったのでしょうか。私はお母さんに、さっきこの場所を通った時はもっと奇麗だったように見えましたねと言うと、そうでした、そうでした、その時この子の目も輝いていたんですと言われました。まさかあれはこの母子のための特別なものだったとでもいうのだろうか、と思ったりしました。
三鷹通りから三鷹八幡を左に曲がり連雀通りで帰る予定でいたのですが、〇〇ちゃんもう帰りましょうねとお子さんに言っていたお母さんが、この子がもう少し桜を見たがっているのでどこかありませんかと言われました。それではこのまま真っ直ぐに行って、三鷹警察の前を行きましょうか、桜並木になってますと言うと、そうしてくださいと言われました。
大成高校の交差点から東八通りまで桜並木になってます。何故か三鷹警察の前辺りは背の高い桜並木になっています。東八通り向かって背が低くなります。背の高い桜並木は高い天井の隙間から青空が垣間見え、爽やかな印象があります。先の方は密の濃い桜のトンネルがあるように見えます。わざとその様に剪定をしたのか、偶然そうなったのか分かりませんが、悪くない景色です。この辺りは何時も車の混むところで軽く渋滞しますが、桜を見るにはちょうどいい感じでした。ここでもお母さんは奇麗な桜ねと繰り返しお子さんに語り掛けます。〇〇ちゃんは本当に桜が好きだったのねとも繰り返します。もっと早くに気が付けば良かったわ、ごめんなさいねと、これも何回か繰り返し言うのでした。
航空宇宙研究所前を左に曲がるつもりでいましたが、お母さんがここも真っ直ぐ行きましょうと言いました。目の前に航空宇宙研究所の桜が見えたからでしょう。ここの桜は塀を乗り越え道路に大きくはみ出しています。しかも桜の木はかなりの大木ばかりなので、桜の花の量が普通ではありません。圧倒される桜にお母さんも、凄いねとお子さんに言っていました。〇〇ちゃんも満足したかしら、もういいかしら、帰りましょうねと言っていました。しかし、そうですか、分かりました、いいですよと言い、私に、もう少しいいでしょうかと聞いてきました。もちろん私ははいと答えます。
深大寺の桜
直ぐ先の深大寺の参道も少し知られた桜の名所です。当然そこへ向かいました。深大寺五差路を右に曲がり調布総合体育館の前を通ります。鉄筋の体育館を土で埋め、ただのマウンドにしか見えない小山が体育館だとお母さんに告げると、へーと感心されていました。左側は神代植物園です。金網を通して見えるのは、ソメイヨシノだけでなく花桃や枝垂れ桜などが、様々なピンクで明るい雰囲気を醸し出しています。桜の木だけでなくケヤキや様々な樹木などで心地良い日陰の中を車は走りました。武蔵境通りを左に曲がり西参道口から深大寺の参道に入ります。
直ぐにあるのは、たくさんのお蕎麦屋さんのためなのか昆布を売る店です。右側は花の鉢を並べた店があり、その先は左右にお蕎麦屋さんや水車小屋、お土産を売る店などが続きます。今まで何度も通った道なので、日常的な景色のはずなのですが、この日は何故か観光気分になり、周りのお蕎麦屋さんや水車小屋などを眺めながら走りました。前後に車もなく、のんびりとした気分になっていたせいでしょう。参道の独特の雰囲気で、桜も他で見た桜とは違って見えました。お母さんはここでも桜が奇麗ねと何度もお子さんに語り掛けます。やはりお子さんの声が聞こえてくることはありませんでした。それでもやっと満足したようで、家に帰ることにも同意したようでした。
家は大きなマンションでした。エントランスに着けて車のドアを開けると、やはりあっという間に車いすを組み立ててお子さんをそこに乗せました。私は見ているだけです。お子さんを見ると目が合いました。するとお母さんが〇〇ちゃんは運転手さんが気に入ったみたいねと言いました。私はそうなんですかと言って、お子さんに向かって笑顔で、本日はご乗車ありがとうございましたと言い軽く会釈しました。頭を上げるとすでにお子さんの目はあらぬ方向を見ていました。〇〇ちゃんは照れているんです。ごめんなさいねとお母さんは笑いながら言いました。料金の精算の為に車に戻ると、今日は親切にして頂いて本当に有難うございましたとお母さんが言うので、私は何もしていませんと言いました。するとお母さんは、桜の木の下へ行くと必ずゆっくり走ってくださったじゃないですか、あれで私たちもゆっくりと桜を見ることが出来たんです。本当に嬉しかったです。有難うございましたと言うのです。そう言われれば確かにそうだったのですが、市役所の前では私が桜に見とれていただけで、三鷹警察の前は単純な自然渋滞だったし、深大寺ではただ観光気分になっただけで、どこもお客さんの為なんかじゃなかったのでした。私がそう言おうとすると、お母さんは続けて、あの子は多分今年が最後のお花見になると思うんです。あんなに喜んで、私も本当に嬉しくて、運転手さんのおかげです。本当に有難うございましたと言われたのです。それを聞いて私の頭の中の言葉は溶けて消えてしまいました。何も言えなくなった私を見て、お母さんも察したようで、ああごめんなさいね、余計なことを言いました気にしないでくださいねと言われました。それでも私は何も言えず軽く頷くことしか出来ませんでした。車を降りられたお母さんは、私が車を出すときも私に向かってお辞儀をしてくださりました。最後のお花見という言葉で、前に乗られたご婦人を思い出していました。しかしあの方は90歳であの子は8歳です。多分今までもほとんどをベッドの上で過ごしたのだろうと思ったら、急に涙がでそうになり慌てて考えるのをやめました。
満開の桜を見ると今でもその二組の方々を思い出します。